甲子園と戦争その3

1941年12月から始まった太平洋戦争は中華民国との支那事変をさらに上回る大規模戦争であったため、日本人は文化を嗜む余裕がなくなっていきます。

 

すなわち、高校野球プロ野球は中止野球選手もボールを投げることをやめ、手榴弾を投げる時代へと変わっていきました。ちなみに日本プロ野球界の偉人であり「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治氏も、戦時中は陸軍少尉として活動し、部下には丹波哲郎氏が所属していました。

 

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戦時中の阪神甲子園球場「球場の形をした軍事施設」と言い表せれる状態でした。

興亜ベアリング工場対潜音響研究所日本造機工場普通海兵養成所川西航空機資材置場陸軍輸送隊駐屯地阪神青年学校軍トラック駐車場に加え、芋畑が置かれていました。

 

興亜ベアリング工場は本拠地が東京にある工業会社で、機械の動作に欠かせない「ベアリング=軸受」の生産を担当していました。当時の車両でも50個以上は使われていましたので、これの生産がストップすればすべての兵器の生産がストップすると考えてもよいでしょう。東京の会社が阪神甲子園球場にまで入ってくるのは日本が追い詰められていたことを示す良い事例かもしれません。

 

対潜音響研究所では球場内にあった温水プールを実験水槽に利用し、ソナー開発を進めていました。

ソナーは音波を使って相手の位置を探す「水中のレーダー」みたいなもので、日本はこの研究が完璧ではなく、損害を出していました。音波は海水の温度で伝わり方が変わります。比較的冷たい海水では音波は遠くまで伝わりますが、逆に温度が高いと伝わりにくくなります。日本近海は冷たい海なので、日本海軍のソナー訓練では、相手が例え遠方にいてもすぐに音波探知ができる状態でした。

しかし、太平洋戦争は南太平洋の比較的高温環境でした。低温環境に慣れていた日本海軍は苦戦します。

高温環境では敵の発する音が例え近距離でも「聞こえない」ことが多く、気が付いたら敵が目の前に現れ、攻撃される事態が多発していました。

 

日本造機工場は、海軍航空機の部品生産を担当しており、元々は甲子園の隣に位置する都市「尼崎」にありました。ここに移された理由は「鳴尾飛行場」に駐屯していたのが海軍航空隊だったからだと思います。その航空隊は「第三三二海軍航空隊」で零式艦上戦闘機を主力とした防空任務に従事していました。「鳴尾飛行場」は元々は川西航空機が新型陸上戦闘機の研究のために臨時で建設した飛行場でしたが、戦争の激化でここにも実戦部隊が駐屯することになったのです。

 

普通海兵養成所ではその名の通り、海兵養成が行われていました。海兵も様々な任務を帯びており、単に軍艦勤務だけをするのが海兵ではなく、陸軍の支援が得られない孤島の防衛は、陸軍と似た「海軍陸戦隊」が担当。アメリカ流に言うと「海兵隊」です。しかしその性格は日本とアメリカでは全く違っていました。日本の海軍陸戦隊はあくまで海軍に属する組織の一部としての立場でしたが、アメリカでは非常に大きな独立組織的性格でした。

 

川西航空機資材置場は球場一塁側の一角に置かれていました。ここには取り扱いの危ないものも保管されていて、もっとも危険な航空燃料も満載でした。戦争末期の大空襲ではこの航空燃料が引火、大火災を引き起こしてしまいます。

 

陸軍輸送隊駐屯地としての機能も阪神甲子園球場に与えられており、球場内グラウンドは軍トラックの駐車場でした。当時の輸送部隊、いわゆる「輜重兵」は軍部の中でもっとも規模が低かったのです。その背景にあったのは小さな経済規模でした。

 貧乏国家日本では敵と直接戦う「第一線兵力」整備でいっぱいいっぱい。それを支える輸送力の整備はとても間に合うものではありませんでした。トラックが完備された部隊もなかなかできず、前線では苦戦します。

 よく「日本軍は戦う事しか考えない、輸送の大切さを忘れた愚かな組織」と言われています。しかし私はそうは思いません。「まず必要な部分から予算をまわす」すなわち、戦争になった時に敵と戦う兵力から整備するのが当然であります。貧乏な日本では強大な列強国と戦う「第一線兵力」の整備は想像をはるかに超えるものでした。

 国力比が、『アメリカ:日本=10:1』だった1940年代。アメリカと戦うために必要な最低限の「第一線兵力」整備がいかに過酷なものか容易に想像できるかと思います。海運国家の日本にとって必要なのは飛行機と船。車は後回し後回しの連続で劣悪な状態の中、輸送に必要なトラックの生産をなんとか続けていました。

 

青年学校国民学校卒業後に勤労を目指す子供達に教育を施す為に作られた学校でした。その一部として阪神青年学校が存在しました。当時の日本ですので、普通の職業教育に加えて軍事訓練もありました。

1945年3月、日本は本土決戦準備を本格的に進めていました。その内容の一部には「国民学校を卒業した男女~65歳以下の男性と45歳以下の女性を国民戦闘隊として組み込む」があります。これは青年学校で勉強している人たちも否応なく兵隊にされることを意味していました。

幸いにして本土決戦は起きませんでしたが、もし本土決戦が行われていた場合、甲子園の青年学校生徒も戦いに身を投じることになっていたかもしれません。

 

「甲子園の土」があるところは芋畑でした。国会議事堂前の広場でさえ芋畑にされていたので、球場内が芋畑にされることは必然だったのでしょう。球場のみならず、甲子園の街の空き地には芋畑が作られていたに違いありません。

 

 

私は阪神甲子園球場と言えば「野球」しか思いつきませんでしたが、これほど過酷な歴史があったことを知らなかったです。