甲子園と戦争
阪神タイガースの本拠地であり、高校野球の聖地でもある「阪神甲子園球場」
皆さんは甲子園球場のある町「兵庫県・西宮市」の昔の姿をご存知でしょうか?
西宮市は、阪神甲子園球場以外に
ゴルフ場、"百面コート"と渾名された広大なテニスコート、鳴尾競馬場に加え、海岸線には「遊園地・阪神パーク」が設置された"一大娯楽地"でした。
現在、これだけあったスポーツ施設等の娯楽施設は殆ど姿を消し、静かな住宅地として成り立っています。なぜそのようになっていったのか、それは戦争と深い関わりがあります。
(写真は甲子園の街並み。北側に阪神甲子園球場)
1941年12月8日、太平洋戦争が勃発
日本中のあらゆる産業が戦争勝利を目指してフル回転。
西宮市には『川西航空機』の本拠地がありました。川西航空機は水上飛行機が得意分野の日本有数のメーカーであり、戦時中は数々の水上飛行機を送り出しました。しかし、戦争は恐ろしいスピードで兵器の発展を促し、スピードの遅い水上飛行機は徐々に活躍できる機会が減っていきます。アメリカに比べ国力が貧弱な日本は、あらゆるメーカーに新しい兵器を作って欲しいと願いました。
もはや時代に取り残されつつある水上飛行機だけを川西航空機に作らせる余裕は当時の日本には当然ありません。川西航空機にも、水上飛行機以上に未来のある陸上飛行機を生み出して欲しいと軍部は要求します。
さあこれから陸上飛行機を作らねばならない。
そうなったら勿論「飛行場」が必要となります。水上飛行機を主な製品としてきた川西航空機は自分たちの「飛行場」は持っていませんでした。それはそうでしょう。水上飛行機は「海」が滑走路なのですから、海さえあれば後は工場だけで良いのです。
飛行場を作るには広大な平地が必要。しかし甲子園はスポーツ施設、娯楽施設で埋め尽くされていました。でも自分たちの工場近くに飛行場はどうしても欲しい。ではどこに作る?
『川西航空機の周りに飛行場を置く』
すなわち、阪神パーク・ゴルフ場・テニスコート・鳴尾競馬場は全て軍部が接収、解体させて飛行場を新たに敷く、でした。
ここに「スポーツの聖地」は消えていくことになります
鳴尾競馬場の正面玄関は飛行場の「管制塔」として唯一残され、他の物は全て破壊されてしまいます。破壊されたものの中には市民の生活を守る「防潮堤」まで含まれていました。飛行機の離着陸の邪魔になるからです。
そして1943年に飛行場は完成。
その名前は「鳴尾飛行場」
川西航空機は優秀な水上飛行機を開発してきた技術力でもって陸上飛行機を研究。
そして「零戦の再来」とも言われる傑作戦闘機「紫電改」を誕生させたのです。
甲子園は川西航空機を中心とした軍需村として発展していきます。
阪神甲子園球場も川西航空機の資材保管場のみならず、潜水艦用音響兵器研究施設、海兵養成所、軍トラック駐車場、日本造機工場が入り、『球場の形をした軍事施設』へと変わっていきました。
1945年になるとアメリカ軍の爆撃が激化。同年3月に空母艦載機による攻撃、5月から8月にかけて5回、戦略爆撃機B29による大空襲を受けます。
特に8月の空襲は市内をほぼ全滅に追いやる大規模なものでした。8月空襲は5~6日にかけて行われた波状攻撃で、「原爆搭載機・エノラゲイ号」を安全に広島上空に侵入させるための「囮」作戦とも言われています。
8月15日、終戦
伝統ある文化施設を手放してまで戦争勝利の為に全力をつくしてきた甲子園の人々の気持ちは如何ばかりのものであったのでしょうか
戦後、飛行場は米軍キャンプ地とされ、飛行場を埋め尽くす兵舎が新たな甲子園の姿になりました。
海岸線では阪神パーク跡地が無残な姿をさらしていました。さらに、飛行場建設のために取り壊された「防潮堤」。水をせき止める壁が無いため、徐々に海辺の阪神パークは海の底へ沈んでいきました。戦争中だけではない"戦争の悲劇"がここにもありました。(現在、旧阪神パーク跡地は引き潮になればハッキリと見ることができます。)
1946年には西宮市役所に復興本部が設置され、「甲子園の再興」がゆっくりと始まりました。戦中に飛行機を作ってきた川西航空機も一時的に、焼け残った自社の付属病院に本拠地を移して活動を始めます。その病院は現在、西宮市総合病院「明和病院」として成立し、川西航空機は社名を「新明和」として日本復興の一翼を担うことになります。
進駐軍も日本を離れ、新たな甲子園の町は出来上がっていきます。
阪神甲子園球場は空襲で一部が焼かれてしまいましたが修復し、プロ野球も高校野球も再開。海に沈んだ阪神パークは甲子園球場の東側に『甲子園阪神パーク』として復活。世界的にも極めて珍しい、ヒョウとライオンを異種配合した「レオポン」を飼育する一大テーマパークになりました。(2003年に閉園、現在は「ららぽーと」)
鳴尾飛行場の管制塔、すなわち「競馬場の正面玄関だった建築物」は、武庫川女子大学の浜甲子園キャンパスとして現存。競馬場→管制塔→大学キャンパスという歴史ある建物で100年以上も使われているのは驚きです。
甲子園と戦争
甲子園には様々な人々の記憶がいたるところに刻まれています