甲子園と戦争その2

阪神甲子園球場がある町、「兵庫県・西宮市」

ここは"一大娯楽地"にふさわしい町でした。

ゴルフ場、鳴尾競馬場、広大なテニスコート施設、遊園地・阪神パーク甲子園球場と共に町のシンボルでありました。…がこれらの物は球場を除いて全て取り壊されてしまいます。

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前回でも書きましたが、ここ甲子園の町には「川西航空機」の本拠地がありました。

水上機メーカーとしても有名で当時の日本航空産業の代表格でした。戦争が勃発してから軍部は川西航空機に対し、新型陸上戦闘機の試作を命じました。

そのため、自社工場近くにテスト飛行を含めた「飛行場」が必須になりました。それもそうでしょう。工場で組み立てた飛行機をすぐに飛ばしてテストさせないといけないのに何キロも離れた飛行場にわざわざ持っていくのは致命的な"時間ロス"です。戦時において"時間ロス"は許されるものではありません。

 

そのために、甲子園の娯楽施設は全て軍部が接収、解体させ、新しく飛行場を敷くことに

 

戦時という非常事態は"市民の娯楽と心の育み"すら刈り取ってしまうのです

それでも戦争に勝てなければ元も子もありません。日本の勝利、大東亜共栄圏の確立を目指すべく、市民たちも協力、甲子園は「軍需村」への道を歩みます

 

甲子園近くには「武庫川」があります。その川沿いに小さな電車が走っているのをご存知でしょうか?その鉄道は阪神電鉄の「武庫川線

これの前身は軍用資材を運搬する「軍用貨物列車」の線路だったのです。

これも甲子園の軍需産業を支える大切な交通でした

 

甲子園には戦争の記憶がたくさん残っています。

今回載せている写真は、戦時中に緊急で作られた「鳴尾飛行場」の図、海岸線の変化等を書いています。

 

写真を見ていただければ分かるかと思いますが、戦前戦後の数年は"白線"の部分まで陸地がありましたが、海の範囲が広がり、現在のような姿になっています。すなわち、引き潮になった時だけ「過去の姿」が確認できます

鳴尾飛行場の南側先端部分、これも引き潮時に半円形のコンクリート部分が現れます。大きさ的には戦闘機2~3機が横一列に並んだぐらいの幅があります。

その向こう側には崩れた防潮堤が確認できます。

写真左側には「遊園地・阪神パーク」の外壁が残されています。阪神パークは飛行場南側一帯に広がっていましたので、現在の阪神パークの名残はその極々一部にすぎません。しかし、引き潮時には「ライオン像の顔」が現れるらしいです。

 

阪神パーク南西側は海水浴場。

そして阪神パークには「水族館」が併設され、そこにはなんとクジラまで見学できる水槽があったのです。クジラを飼育できる技術を持った水族館が戦前からあったというのは特記すべき事実だと私は思います。

 

これが戦時体制の流れに巻き込まれ、取り壊されてしまったのはやはり寂しいものだと思います。

 

しかし、日本だけが戦時体制で貧しかった訳ではありません。大国アメリカでさえ、戦時体制が叫ばれ、自宅にある金属製備品は全て兵器生産の資源として徴収されています。私服の代表「ジーンズ」も資源節約の影響で、簡易生産型ともいうべき「大戦モデル」ジーンズが当時のアメリカで作られていました。

 

 

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戦争という緊急事態がどのようなことであるのか

甲子園の町にも深く刻まれています